信(2)
BY ニドウ
一般に「信じる」という言葉は「〇〇を信じる」という風に使う。「愛する」という言葉もそうだ。対象があって初めて文章になると思っている人が多いのではないだろうか。
しかしはたして対象のない『愛』や『信』は成り立たないのか?
ある。それは全てを対象にする場合である。ありとあらゆるもの、森羅万象を対象にする場合には文章として対象を表記する必要はなくなる。
言葉は万能ではない。もどかしいくらい不自由なものであるが、それはまた真実を暗喩する面白いものでもある。文章として可能であるということは非常に重要な意味を内包している。対象を必要としない『愛』『信』、それが真実であるという事を示しているのだ。
『愛する』『信じる』という言葉はそれだけで完結する言葉なのだと思う。そして対象を限定しないということは「全て」を暗示しているのだ。
私は今、「宗教を信じる」という行為は『宗教』を信じることが大事なのではなく、ただ『信じる』という行為が目的なのだと理解している。
対象のない『信』が無限の『愛』なのだ。この時「あなたは『愛』である」という言葉が成立する。
仏教が痛底する日本人には『愛』よりも『信』の方がなじみ易い。「あなたは『信』なのだ」
『信』とは「受容」、つまり受け入れ同化することである。
対象のない『信である』ことは、世界と一体になるこなのだ。我も他人もない「自他不二」の存在である。
人みな頭(思考)で理解し判ったつもでいるが、この世界の何も判っていない。
本当に理解するということは「全身にしみわたるカタルシス」であり、魂で理解することなのだ。
魂は『信じる』ものだけを理解する。これが「色心不二」である。
『信』(『愛』)こそ始まりであり終わりであり全てである。