仮定の話には答えられない?

by COM

今朝久しぶりに「仮定の話にはお答えしません」という政治家の発言を聞いた。民主党の岡田幹事長がテレビで報道陣に応えている。で、以前別のところで書いたコラムを再掲します。

最近よく政治家が報道陣の質問に、「そんな仮定の話には答えられない」というセリフを耳にする。
特に政治資金の問題で秘書が逮捕された議員や政府幹部は「いまは捜査の段階ですから結果を見てから。仮定の話はしません。」
マニフェストの実行を迫られて「もし出来なかったらどう責任をとるのか」と迫られた総理・閣僚は「そのような仮定の話には答えられない」とこの言葉を頻繁に連発する。堂々と何ら恥じるところがないとばかり「何度言ったらわかるのか」とでも言いたげに質問者を見下したような口調で喋る。
私はいつもなぜ報道陣はそこで引き下がるのか不思議に思ってしまう。「なぜ仮定の話ができないのか、その理由を聞かせてほしい」と聞き返してほしい。

政治家たるもの様々な仮定を設定し、その対応を想定することが一番大事じゃないのですか。
未来の事を話すときは全て仮定の話をしているのだ。日本の将来を預かる政治家は仮定の話をしなければ国家戦略も防衛もそしてお得意の”国民の命を守る”ことも議論できなくなる。
ここまで書いてふと「民主党の議員は仮定の話をしないからこんな行き当たりばったりの政策しか取れないのか」と思ったのだが、もし事実なら恐ろしい。
まさかそんなことはあるまい。将来の政策を決めるのだから、全て仮定の話をしているのだろう。いつも仮定の話をしているのだから、都合の悪いときだけ「仮定の話はしません」はないだろう。

ひょっとして彼等は「歴史に”もし”はない」という言葉と混同しているのではないのかと思った。
もしそうならお門違い。
これは「あの時こうして場おけばよかった」という繰り言を言っても始まらないという意味で、「現在や未来の仮定の話をしてはいけない」なんてことを言っているのではない。

「仮定の話に答えられない」というのは間違いである。それは「仮定」という言葉の意味を「嘘」と故意に混同して誤魔化しているのである。「仮定」は確定した「嘘」ではない。あくまで仮定である。
仮定の話では「仮に(A)であるならばこうなる(する)。しかし(A)でなく(B)ならばこうなる(する)」という話になる。仮定の話をすることに何も問題はない。

仮定の話が出来ない場合があるとすれば、何らかの事情で「その問題から生じる仮定の結論を伏せておかなければならない」というケースである。だからその場合の答え方は「その仮定の質問には答えられない事情がありその事情は現時点で発表出来ない」という答えしかないのである。もっと簡単に「ノーコメント」でもよい。「ノーコメント」には「その質問には答えられない(事情がある)」ということだ。
だから政治家が「仮定の話に答えられない」というのは本来「公にできない都合がある」というべきであって、その場合は公にできない都合があることが前提になる。その点に周囲の理解が必要になる。可能ならばその事情がどのような性質のものであるかを説明するべきである。
「仮定の話には答えられない」といって自らの口を閉ざしマスコミの耳も塞いで、しらを切り続ける彼らは、その都合が答えられない「不都合な真実」を隠していると言われてもしょうがない。

以前、普天間基地問題についてだけ「政府案を発表すると反対勢力につぶされるから」ともっともらしい事情説明をした元首相がいたが、残念ながら首相自身が「アメリカにも沖縄にも連立与党にも納得してもらえる案を模索する」と云って来たからには「反対勢力も納得する案を出す」と言っているに等しく、「反対勢力につぶされる」では正当な事情説明にはなっていない。残念ながら理由になっていない。

あと一つだけ理由があるのだがこれを言ってもいいものかどうか。「私にはには政策の意味も目的もわかりません。だから質問の意味もわかりません。そんな私に今後の展望なんて聞かないでください」

こんな理由ではないことを神に祈っている。

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