どうもにも相変わらずのマスコミや文化人のアホさ加減に嫌気がさして。
あらゆる『権利』には『義務』が伴う。こう考えていいだろう。
よくマスコミや文筆家や漫画家が主張する『言論の自由』『表現の自由』という『権利』も例外ではない。
権利と義務は一体。自由を標榜する限り一定の義務を伴うルールがある。
いずれにしろそれが「人を傷つけたり不快感を与えたり損失を与えるのであれば法に基づいて審議され法にもとれば裁かれる」というのが必然的な義務である。
だが、最近の文筆家や表現者は、そのような当然の義務を、相手としては当然の権利である訴訟を起こされただけで、「『言論の自由』『表現の自由』という『権利』の侵害に当たる」と逆に食って掛かるようだ。
自分の権利は主張するが、
相手の権利は認めないということだ。
まあ左翼がよくやるような理不尽且つやみくもな訴訟はご勘弁願いたいが、言論人や表現者は「自らの主張や感覚を表現することで、世の人たちに一石を投じたい」という志ある人たちでしょ?
ならばここは堂々と受けて立ち、世間さまに議論されることを喜んでいいのじゃないの?
ところで『表現の自由』における『美・醜』の問題は各人の感性で共通認識は難しいところがある。
そのようなものを規制する法律を作る方がおかしいともいえる。
だが一方、新聞や雑誌の記事、小説・随筆、漫画や映画のセリフ等の場合は『言語』である。
特定の社会の中で、共通の概念や意図を持つものとして認められるからこその『言語』である。
感性のような食い違いは起こらないのが前提である。
ところが、最近は日本国内にも、中国人や韓国人のような御人が増えているのか、その言語が通じないかのごとく『支離滅裂』な返答をされると「しまった!こりゃあ話す相手を間違えた」と後悔する。
言語で人を誹謗中傷したり、意図的に人に不利益をもたらす虚偽を述べたりすればそれは当然法で裁かれるものである。
『言論の自由』とは『思想信条の自由』と表裏一体で個人の自由ではあるが、何を言っても許されるなどといういい加減なものではない。人を傷つければ裁かれる。
これは法の問題なのかもしれないが、この国では自国の歴史を捻じ曲げ自国とその国民を貶める新聞や雑誌や漫画が大手を振って、私の心をいたく傷つけ、そのくせまるで自分たちが他に優る知識人・文化人であるかのごとく振る舞う輩が大変多いので実に残念である。
ノーベル賞作家大江健三郎氏の著書『沖縄ノート』で、誹謗中傷された沖縄守備隊の軍人の家族が名誉棄損で訴えた裁判で、大江氏は無罪になったのだが、その無罪の理由が驚くべきものである。
「大江氏の記述には真実相当性が認められる」
勘違いしないように。これは大江氏の記述が真実であるといっているのではない。その真逆である
「その当時そのように大江氏が真実と信じてしまッたのも無理はない」
といってるのだ。つまり、
「大江氏は真実と思ったが真実ではなかった!」
といっているのであるが、なんと名誉棄損の判決は
『無罪』!大江の記述は嘘だが名誉棄損に当たらないという矛盾だらけの裁判!
被告の大江氏と池波書店は
「勝った!勝った!」と喜びの記者会見をした。ばっかじゃなかろか!
「真実相当性」などといわれたら
「当時あのように信じましたが事実は間違っていました。申し訳ありませんでした」と謝罪する。これが普通の日本人のとるべき行動だ!
嗚呼思わず熱くなってしまった!嫉妬!
言論の自由にはマスコミが最もかかわりが深いのだからもう少しよく考えてほしいものだ。
///__米最高裁は2日、情報源を守るために記者が法廷証言を拒むことができるかどうかが争われた訴訟で、証言の拒否を認めるよう求めた記者側の訴えを退ける判断を示した。__///
これなど日本のマスコミ人は当然拒否できると思っているだろうがとんでもない。
その内容次第で「法の名のもとに取材源を明らかにしなければ有罪」となるのが当然だろう。