≪BY カワサキ≫
子供の頃、抑えようのない「征服欲」に 取りつかれた時期がある。 たかだか小学生高学年の子供が「世界征服」を真剣に夢想するのである。まるでマンガである。
いや実際に漫画の影響が大きかった と思う。当時の少年漫画を分類すると「スポ根」「SF」「ギャグ」「忍者・武芸」「歴史」「探偵・アクション」もの・・恋愛モノは無かった。SF・忍者・ アクションものが好きだったように記憶してるのだけれど、よくあるパターンが、「荒唐無稽な、日本や地球征服をもくろむ秘密結社・悪の組織が現れそれに正 義の味方が立ち向かう」という筋立て。子供達は、みな自分が主人公の正義の味方になったつもりで、胸をときめかせて少年漫画にかじりついて見てたのだろ う。
御多分にもれず私もその一人であったのだが、小学校5~6年のある時期、「正義の味方である自分が平和の為に日本を、地球を支配する」という妄想に 夢中になり身を焦がすようになったのである。笑わないでいただきたい。訳のわからぬ子供の「夢想」ではあるが実に真剣に望んだのであり、「人生の目的」と まで思い込んでいた。
だがやがてその計画は放棄した。不埒な野望を抱えた小学生は、なお不遜なことに「出来はしない」と諦めたのではない。
まず日本を征服する、日本の次はアジア全体、東洋の次は西洋、そして全世界を征服したとしても、私の征服慾は満たされないだろう。きっと次は宇宙に 目が向くはずだ。宇宙征服に同じように身を焦がすことだろう。征服慾に取りつかれた私は、この欲望を身内に抱え、未だ何も征服していない自分でさえ地団太 踏むほどの焦慮の中に住んでいる。だが宇宙は広い、広すぎる。果てしない宇宙征服を目指す間、満たされぬ欲望に身を焦がし続けなければならない。
こう思った時、「満たされることのない人間の欲望の本質」を知り、計画を放棄したのである。
ごくたまにあの焦慮の時期を思い出すことはあったのだが、半世紀を過ぎふと考えた。「なぜあれほどまで『征服』にこだわったのか?本当に『征服』したかったのだろうか?」
碌に言葉も知らぬ子供心に、一途に『征服』という言葉に置き換えていたが、今思うとあれは、生まれ落ちて自我が芽生えつつある時期に、世界と切り離 された「自分」を自覚した子供の「アイデンティティー」を求める欲望だったのではないかと思うようになった。「自分と世界を一体にしたい」と願う子供が、 『征服』という形で世界と一体感を得られると勘違いしたのだろうと思っている。
母親のお腹の中にいる時子供は「胎内」が世界である。そこにあるのは「自分」と、伸ばせば手の届く「自分の血肉と繋がった胎内」で、世界はそ れしか存在せず「自分と世界は一体である」。 そして生まれ落ちて「自分」は「世界」と切り離され、孤独や不安にさいなまれる。
世界征服を夢想する「征服 欲」は、再び世界と一体にならんとする「胎内回帰願望」だったのだ。
この推測には一つの仮定がある。生まれ落ちる前から「自分」には「意識がある」という仮定である。あながちこの仮定を否定はできない。
時間をさかのぼり自分の記憶をたどる「退行催眠」で「胎内での記憶」のみならず「前世の記憶」を語る人が相当数存在するという事実。さらに催眠によらずとも、10歳未満の子供が「自分の前世」や「体内での記憶」「生まれ落ちる瞬間の記憶」を語る現象は近年よく聞かれる。
「前世・胎内での記憶」つまり「意識」の存在は近代科学でも否定できなくなってきている。
となると、「人間という存在」は現世という「時空」に縛られないもっと深遠な存在であると考える方が妥当であると推測できる。時空に縛られない存在 ならば、自他の区別もなく生死の区別もない。輪廻転生もごく当たり前と思われる。仏教でいうところの「自他不ニ」「生死不ニ」つまりあらゆるものと「一体 混然の存在」であり、現世にあってなお、人間の本質は本来はそのような存在であるという事なのだろう。
「世界との一体感を求める」私の子供時代の『征服慾』は当然のものであったのだと思っている。「世界との一体感」を現世で体得する、いや思い出すことが「悟り」と言われる状態だろうと思っています。
世界征服者の妻になりたかったな女
2012年10月18日 6:12 PM10月18日、今日は八幡浜祭り「てやてや音頭」でも見て下さい。