青春 そして 別れ

BY ハッチョ

我が人生において恩師と呼べるただ一人の先生”クマさん”に出会ったのは40年以上前の八幡浜高校時代。中途半端な大学予備校のような普通課高校で私は登山部に入った。その登山部の顧問をしていたのが皆が”クマさん”と親しみを込めて呼ぶ野本先生であった。
一緒に入って今でも付き合いのある中学校からの友人に聞いても「なぜ登山部だったのか」どちらも覚えていない。心に残るほどの大した理由もなかったのだろう。

あまり好きになれない 「青春」という言葉のただ中のこの時期に、私は「何がしかの確たるものを手に入れた」と言う実感は殆どない。生意気盛りで勉強など馬鹿にして殆どしなかった(いや出来なかった)。今にして思えば喪失感の方がはるかに多かったように思う。簡単にいえば「人に誇れる青春」ではなかったということだ。今でも心に残る思い出や癒しきれぬ傷が少なからずありはするがそれは人それぞれ。気が向けば駄文にしてお目にかけるかもしれない。

しかし私はこの高校時代に僥倖ともいえる幸運を手に入れていたのだ。当然ながら当時そのことを知る由もない。その幸運とは、”クマさん”が顧問として在籍していた時期の登山部に末席ながら連なっていたことである。30代前半から後半にかけて顧問を務めた”クマさん”への思いは、実にありふれているが「尊敬と親しみ」というしかない。

”クマさん”を知るには長年の付き合いで遠慮もない生徒達の言葉を聞けばいい。
「あのな、”クマさん”はどう考えても他の仕事はできんぞな」「そや、あんなお上手もいえん、上のものに媚びんで会社勤めはできんぞ」「わしらの無茶につきおうてよう校長までなったんは運が良かったとしか言えんな」

「”クマさん”は絶対に教師以外はできんかった!」という結論に達し、その上こともあろうに当時の恩師の年齢をはるかに過ぎた古びた生徒たちは「”クマさん”は本当にええ生徒に恵まれた」とまで言いつのる。

生徒から「先生は教師しかでけん」と言われる教師などそうそう居るものではない。
してみると確かに「生徒に恵まれた」という点もあながち間違いではないのかもしれない。

私自身の個人的なきっかけもある。部活の会報誌に寄稿した”クマさん”のエッセーである。

その出だしはたしか、
「『なぜ山に登るのか?』とよく聞かれるのだが 『えへへ』 と笑って答えない事にしている」 というものだった。
「『そこに山があるからだ』と答えた登山家がいるが、それは登山を可能にする条件で、山に登る理由ではない・・」
(誤解しないでいただきたい「そこに山があるからだ」と言う言葉を理屈っぽく否定したり揶揄してるわけではない。それ程 底は浅くない・・・・・・以下略:ご希望があれば了解を得て投稿します)

文章は続くのだが、私は大いに魅かれた。ひねた15歳の少年には美しくまぶしかった。学校の先生なんかと尊敬もしたことのない、空っぽのくせにプライドだけ旺盛な15歳の私は”クマさん”によって救われたのだと思う。初めて信じてもいい他人の大人に出会ったような気がした。
それから2年間登山部の顧問として”クマさん”にお世話になった。3年の春先生は転勤になったが不思議なことだが、いつでもまた会えると感じていた。

やがて20年余り、クマさんが定年退職するとすぐ、「”クマさん”の定年を祝う会(?)」の案内が来た。
「先生も無事定年やから皆で集まって何か記念品でもプレゼントするか」

発案したのは大野先輩である。末席の私でも何年かに一回くらいは先生に会う機会はあった。だが先輩連中はもっと足しげく”クマ”さんを訪ね定年を期に”クマさん”を取り戻す準備していたのだと思う。

振り返れば高校の3年間などあっという間に過ぎ去る、淡い夢のような時間だったに違いない。しかしその僅かの時間クマさんと触れ合った生徒の殆どがクマさんに惹かれ、おかげで16・7の頃、2歳も違えばまるで大人と子供のような関係のあの時期、前後7年間にわたる先輩・後輩が共通の仲間として喜々として「定年を祝う会」に参加した。

その集まりが 「ひなんクラブ」 としてさらに20年以上続くことになる。
最初は国内年1回の集まりが、すぐ年1回の海外旅行も加わり、さらに四季折々なにかと理由をつけて集まる。「じいちゃんも暇やろうから」とやって来る、気の置けない仲間との語らいはいつも笑いに溢れる楽しい集まりとなる。

末席の私が6歳上の大野先輩を 「大野ちゃん」 と呼ぶことに何の違和感もない。クラブの発起人で、人を非難しない、腹を立てない、泰然自若。何でも快く引き受けてくれる彼を私はひそかに「ヨッシャー大野」と呼んでいた。

その「ひなんクラブ」の生みの親大野さんの訃報に接したのが今年2月。
脳出血で倒れそのまま帰らぬ人となった。今、65歳の死は早すぎる。
なにより、先立つのみならず、仲人まで務めた”クマさん”に葬送の言葉を述べさせる無慈悲さは本人も心残りだったことだろう。

昨日、その大野さんの追悼を兼ねた例会を四国カルストの姫鶴荘で開催した。
運悪く土砂降り強風の中での開催となったが20人の仲間が集まった。
仲間が作った在りし日の大野さんのスナップ写真のスライドショーに不覚にも涙が出てきた

「青春」という言葉は好きではない。
チャーチルだったと思うが 「若い奴等に”青春”などはもったいない」 と言った逸話があったと思う。その通りだと思う。
若い未熟な青年達はその力溢れる輝かしい時代を、衝動を伴う未熟さゆえに台無しにし、苦しみにさえしてしまう。傍から見れば「もったいなくもあり」我が身を振り返れば「おろか」でもある。

誰もが甘く語る「青春」という時代は、苦悩をともなうがゆえに、「思い出」だけは限りなく甘い郷愁に充ちたものに変貌する、また人によっては身を切るほど切なく苦いものとなるのが常なのだ。

だが「ひなんクラブ」はまだ続いている。
もし人に「あなたにとって『ひなんクラブ』とはなにか?」と聞かれたら、「えへへ」と笑って答えない?いやここはやはり「青春」だと答えるしかないだろう。
大野さんにとっても残されたメンバーにとってもきっと同じだろう。
そして”クマさん”にとってもきっと同じだろうと思っている。
我々の青春は「ひなんクラブ」という形で続いているのだ。

そうして、もう若くはない「ひなんクラブ」の面々には、ありがたいことに「青春が醸し出す猥雑な味の酒」の澄み切った上澄みだけ、「尊敬と信頼と友情」だけを味わっているような気がしている。

40数年前の僥倖のような出会いに感謝するしかない。

これからもクマさんの元に我々は集う。 そしてそのたびに”その場に居なくとも”大野さんに出会うだろう。
一人欠け二人欠け、いつの日か「ひなんクラブ」も終わる。
悲しいだろうが、その悲しみは一味違う満足をともなう悲しみであるような気がしている。

ありがとう 大野ちゃん。 また会おう。 今度はどこの山で会おうかね?

コメント

コメント(2)

  1. 元夢見る乙女

    あなたは今青春だよ!と言われても当時は「何だそれ?」ぐらいにしか感じなかった気がします(@_@) 

    私にも青春があったのかなぁ?と考えてみても答えが出てきません(>.<)

    本当の恩師と呼べる人がある人は少ないのだそうですが、青春を共有出来る友人の多いハッチョ様は幸せ者だと思います(^^)/恩師のおかげですねー\(^_^ )

    返信
    • 浜っ子

      先生は当然のこと、惜しくも先日他界したOさん筆頭に個性溢れる先輩・同級生に心から感謝しています。

      ここまで来るとなにやら前世の因縁めいたものを感じます。

      「前世に一体何があったのか?」・・・知りたい!

      返信

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