なぜ日本人は学ばなくなったのか - 齋藤 孝

「なぜ日本人は学ばなくなったのか」 講談社現代新書 著者 齋藤孝

1960年生まれの著者は、現在、明治大学文学部の教授であり、「声に出して読みたい日本語」の著者として広く知られている。
「なぜ日本人は学ばなくなったのか」というタイトルは、文中で著者自身が 「当たり前ですが人間は学ばなければ馬鹿になります」といっているように、「なぜ日本人はこんなに馬鹿になったのか」という問いかけなのです。

序章での著者の言葉である。
「なぜ日本人が学ばなくなったのか、それに対する私の端的な回答は”リスペクト”という心の習慣を失ったからだ」(リスペクト:尊敬・憧れ)

そして、日本人からリスペクトを奪った原因を、”蔓延するやさしさという価値観”と”悪い面だけ取り入れたアメリカ文化”にあるとし、さらに日本人が失ったリスペクトのスタイルとして”書生気質”と”教養主義”を挙げて論を起こしている。

確かに今の日本を見ると ”やさしさ” が何よりも求められているようである。
人間に対してはもちろん、人間以外の動物にも、そして”地球にもやさしく”生きることが求められる。
今ほど”やさしさ”がもてはやされる時代などなかったはずだ。なぜ今 ”やさしさ” がこれほど求めれるのか、氏はその理由を次のように捉える。

「アメリカ文化はカウンターカルチャーの文化である」「”やさしさ”は、目標を持ち努力して幸せになる、従来の競争社会に対するアンチテーゼとして登場したカウンターカルチャーである」「やさしさは戦後日本がアメリカナイズされた結果である」

「ゆとり教育」という”やさしさ”は、「詰め込み教育」は敗者を生みだす悪であるとみなした結果である。
人を傷つけない”やさしさ”は”人一倍傷つきやすい弱さ”でもあるのだ。
”やさしさ”は身を守るため、自分を傷つけるものを遠ざける権利を要求する。
競争のない(敗北のない)・比較のない(差別のない)・決定のない(強制のない)。
このモラトリアム状態を権利であり自由であると主張するのが現代である。

たしかに「何者でもない自分」は「何者にでもなれる」権利も自由も有しているように見える。しかしその権利と自由は社会に出て働き一人前の人間になろうと決意した瞬間に失われてしまう。
「何者にでもなれる」という未成熟の子供であり続けることを夢見て大人になることを拒否する”ピーターパンシンドローム”こそアメリカンドリームという”やさしさが見る夢”でしかない。
ヒッピーもロックもドラッグもセックスも、アメリカの若者文化の特徴であるカウンターカルチャーであり、リスペクト社会であった日本を、受動的で即物的で世俗的で享楽的な社会へと変えていった。

かつて日本には”書生”という、若者が師と仰ぐ人物を求め、見出し、通い詰め若しくは住み込み、そのすべてを吸収せんと一定の時間を師と共有する学びのスタイルがあった。
単なる学問の師と弟子の関係以上に深く、まるで、「学問・知識を身体ごと生活ごと模倣し自分のものにする」とでもいうような書生気質とは、”学ぶ”ということの本質を捉えている。

日本は江戸時代という長期安定期をへて世界でも最高レベルの教養社会であった。日本人にはおそらく教養が人生の価値と一体だったのだろう。

著者は私ほど断定的ではない。
しかし大正期に導入されたマルクス主義は、新教養主義としてそれまでの教養主義を侮蔑し抑圧していった。そして学生運動と世界の共産主義国家が破たんした時、マルクス主義の没落は旧教養主義をも忘却の闇に沈めたのだろう。教養主義は完全に没落したのだと思う。

教養を求めない社会で”やさしさ”を求め「努力や競争を忌避し自分らしさを追求する」人達がいる。
教養を求めない社会でも”ひたすら「物質的栄華を求め金銭的価値を追求する」人達がいる。
最後に「思想の背骨を再構築しなければならない」として、中高年の責任に言及し、「あこがれの対象を提示し、リスペクトの導火線に火をつけてやることが上の世代の責任である」と締めくくるのだが、こう言うれだけで方のつく問題ではないだろうというのが正直な感想である。

それよりもあとがきに、著者の教育方針として大学で実践している読書会の様子を記している。
ここにこそ、その具体的な解決方法が明確に示しているではないか。彼は語る。

学ぶことは義務ではない、祝祭だ。この学びの祝祭感覚を伝承してもらいたくて私は大学教員をやっている。
殆ど読書経験のないものが入学してくる。彼らにブックリストを示し、4人一組で音読回し読み、語り合ってもらう。そして他の3人に向かって「今自分に出来る最も知性・教養に溢れた話を他の3人にしてもらう。
これを順番に行い最後は投票で誰が一番知性的であったか競い合う。

これを不退転に決意を持って強制的に3ヶ月繰り返す。強引なようだが3ヶ月たつと読書をしない学生はゼロになる。そして学生は必ず感謝してくれる。

つまり”やさし”さなど考慮する必要はない。読書を強制するのだ。子供の頃なら強制しなくとも素直に従うがもう大学生ともなると強制しなければ無理だ。
学生に全力を出す状況を体験さすのだ。そこで比較や競争は何の問題でもないことに気付くのだ。問題は自分の力と成長だけであるということに気付くのだ。
それを繰り返せば、学生たちは ”学ぶこと” ”教養を身につけること” が 喜び・祝祭である事に必ず目覚めるのだ。自らが選択した新しい価値観を通じて、新たな自己を創造する道筋を見出したのだ。

齊藤氏は、自ら教養主義を復活させる方法論を実践している、実践の人でもあるのだ。

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