「月光の夏」 毛利恒之著(講談社)

≪BY WEBラジオ≫

特攻隊。
追い詰められた軍部の生んだこの作戦は、制空権を失った状況では確たる成果を上げることはできなかった。
にもかかわらず、軍部の狂気は多くの若者に「自ら死を選ぶ」という過酷な選択を強いた。
彼らは「家族を守り国を守るためにはこれ以外の方法はない」と教えられ且つ自らに言い聞かせ運命を享受した。

その若い特攻隊員二人が出撃間際、「最後に愛したピアノを弾きたい」と数少ないピアノのある小学校を訪ね、ピアノを弾かせてくれと頼んだ。
快く引き受けた若い女性の音楽教師と子供達とを前に、彼らはベートーベンのピアノソナタ「月光」を弾き、束の間の交流を持った。

45年後、音楽教師はそのピアノが廃棄されると聞いた時、はじめてその話を打ち明けピアノを壊さないように頼んだ。
ところが、その話がラジオで取り上げられ大きな反響を呼び話題となり、、マスコミは「特攻隊員は誰だったのか」調べようとしたことから色々な人間模様が浮かび上がってくる。

一人は死に、一人は機体の故障で生きていた。
だが生きていたがゆえに彼の置かれた過酷な状況が浮かび上がってくる。

一見ささいな物語であるこの物語は、限りなくノンフィクションに近いものだろう。
作り物ではない何の変哲もなさが返って事実であることを証明している。

戦後一部の人が手のひらを返したように「戦争は悪である」「日本をダメにした軍部は一般人の敵であった」などと正義を振りかざしているが、この書はそのようなこともなく、ましてや戦争を美化することもない。等しく平凡な人として生まれながら、時代に翻弄された哀しみのみが積み重なってゆく。
多くの特攻隊員が残した遺言に涙しないものはいないだろう。感謝や平静を装った行間から哀しみがあふれている。
読む者は「二度と戦争は起こしてはならない」と誓いを新たにするだろう。

戦後の価値観で、声高に正義を振りかざし、同胞を責め、それ以上に事実をねじ曲げてまで日本人を貶めるあざとさはここにはない。

戦争は善悪では無かった。善悪は人間のつくるルールである。
後世の基準から見れば愚かしいものであっても、かつては外交の一手段としか見ていなかった。
戦争を悪と考え始めたのは、原水爆という大量破壊兵器が開発された後であり、そして今なお善悪の定まらぬものである。
現に世界中で、覇権や領土を争う地域紛争や宗教対立による弾圧や紛争は絶えない。世界中の誰一人戦争は絶対悪としてなくすべきだと言いきれない。なぜなら国連においてさえ、自国の利害の元、戦争を絶対悪として糾弾できる国が無いのを見ればよくわかる。未だ戦争は善悪ではない。

「生命」以外に価値を見いだせない現代社会において、死は無価値・敗北であるがゆえに悪とみなす者が多い。
しかしそれでは、「死を選ぶしかなかった特攻隊員はかわいそう」、「死を強いた上官は酷い人悪人」という薄っぺらな決め付けしか残らない。

戦争は善悪ではないが、多くの哀しみを生む。多くの人に悲惨な人生を強いる。それは事実である。無い方がよいに決まっている。

死を目前にして「ピアノを弾きたい」と願う特攻隊員。
その姿を心に抱き続けた音楽教師。
生き残って過酷な軍部の仕打ちに耐え静かに悲しみの余勢を送ったもう一人の特攻隊員。
この人達がみな「かわいそうな」だけの人なのか?
はかなくも美しく、雄々しくも哀しい、そして喜びも悲しみも知るごく普通の人達であると認めることが必要なのではないだろうか。

この物語の登場人物達の哀しみは深い。しかし正邪・善悪を超えて懸命に美しい人生である。
この本は、道半ばに逝く者達の人生が無意味でなかったことを、そして限りなく哀しくも人間的であったことを語っているのだろう。
過酷な戦争時代の青春群像は、「月光」のように静かに「如何に生きているのか?」と問いかけている。


沖縄に酔う(2)

≪BY 宅僕≫

沖縄の中心地、那覇の街。
地元の人達の集う路地裏のスナックで、かなり遅い時間に、見つめあいながらデュエットする70半ばくらいの老夫婦を見た。

「ご夫婦でこられる方多いんですか?」 と、これまた80歳すぎたママに話を向けると、「夫婦じゃ来ないよ」 と、いともあっさり否定され 「へ?」

よく見れば、薄暗い別の隅のボックスにも同じくらいの年恰好のペア。ママの方を向いたらソッポを向いて知らん顔。

「ああこれは話のタネにもならない普通のことなんだ」と納得しました。

観光客のあまり行かない地元の人達が行くススナックは「安い!」
3000円も出せば、山盛りのおつまみ(島ラッキョウやおでん)が出て、時間に関係なく過ごせる。デートコースには最高なんです。

老後は沖縄に決めた!
その為には今から行って、将来デートしてくれそうな「若いオバ―」を物色しておかなければ。

ほの暗き 南の島の 酒場にて
イチャリバチョ-デイ 古酒(クースー)愛でなむ
(イチャリバチョ-デイ:一度会えばお友達)


沖縄に酔ふ

≪BY 宅僕≫

泡盛に 酔いて紡ぎし 夢の跡
古城(グスク)の石組 島空に映ゆ

旅人の 夢を食らうや 琉球の
島の緑は 哀しとも見ゆ

海人(うみんちゅ)は 白き歯をむき 獲りたての
モズク差し出し 食えと勧める

 

 


泣くな愛ちゃん

≪BY パックマン≫

卓球の福原愛選手負けちゃいましたね。泣いてましたが勝負は非情。
片や、石川選手は快勝。

で、ど素人が偉そうなことを言いますが、見てると石川選手と比べて愛ちゃんには少し余分な動きが、特に上下動が多く見えました。

前で打つ時や速い攻めに反応する時も、自然と体の反動を求めているようで、その分タイミングが遅れる。特にフォアがぎこちなく見えました。
頭は反応しているが腕の動きが石川選手等より少しだけ遅れる。早く合わそうとしても腕は振れず押し出すようになる。

幼いころからやってきたので、あの小さな体を目一杯使い、身体全体の動きでカバーしてきた癖の名残のように見えます。

早熟の天才の悲しさでしょうか?

 

 


柔道界はオリンピック参加を辞退すべき

≪BY WEBラジオ≫

柔道男子66キロ級の準々決勝、日本の海老沼選手と韓国のチョジュンホ選手で争われた延長戦。不可解な判定に場内もテレビ視聴者も喧々囂々。

まず延長戦で主審が海老沼の有効を認めたものの場外ビデオ審査員が判定にクレーム。結局取り消し。だがここまで明らかに海老沼優勢。

ところが時間切れで旗判定になると、主審と二人の副審が全員そろって韓国の旗を上げた。この瞬間会場も日本選手団もテレビを見ていた人も全員「彼らは上げる旗の色を間違えたのだろう」と感じたはず。

この旗判定に、先程海老沼の有効を取り消させた場外ビデオ審査員が再度クレーム。三者全員が一致した旗判定をやり直させると、今度は全員が日本の海老沼の勝ちを告げた。

この不可解な判定には誰もが納得がいかない。場外ビデオ審査員の権限がここまで強いのなら、主神副審は不要である。全てビデオ判定にするべきである。これが第一の異常。

そして第二の異常は、延長戦終了時に全員が青旗(韓国側)を上げた事。特に主審は覆されたとはいえ一度は海老沼の有効を裁定した本人。なぜ韓国側の旗を上げたのだ?
この時何やら得体のしれない力が判定に加えられていると感じた人が多いのだろうブーイングが響き渡る。

騒然とする会場で、先程海老沼の有効を取り消した場外ビデオ審査員が旗判定にクレーム。
これが第三の異常。通常ビデオ判定は一つ一つの技について判断の補助をするもので、試合全体を決めることなどあり得ない。
そのクレームに審判団が延長戦全般を見直す時間もかけ無かった。なのに今度の判定は3人とも白旗(日本)。もう無茶苦茶としか言いようがない。

韓国側の報道は「勝利を横取りされた」といつものようにいやらしい表現で「日本側が横取りした」と主張しているが、我々は延長終了時の不可解に韓国側に傾いた判定をきちんと説明してもらいたい。

韓国の選手も、これまで見た韓国人のようにエキセントリックにわめきたてるようなこともなく(まるで日本人のように)実にさわやかな好青年であったのでこの不可解な判定は気の毒であった。

結論を言おう。
オリンピックで柔道はお止めなさい。日本の国技が諸外国の都合で次々とルールをねじ曲げられもはや武道とは呼べない。日本人の手で美しい柔道を守り、オリンピック以上に権威のある大会を開催すればいい。

オリンピックはそんなに大事なものではない。商業主義に染まっている。政治に翻弄されている。国連みたいなもんだ。
日本人は、オリンピックと国連とIMFとその他もろもろ一度参加を真剣に見直せばどうだろう。世界の公的機関の如き名を借りて「偽の歴史認識」を押し付けられるのはもう我慢する必要はないだろう。オリンピックで日本選手が勝つたびにルールを変更されるのももう聞きあきただろう?

 


なでしこ引き分け

《BY パックマン》

なでしこがスゥエーデンと引き分け。
決勝リーグ進出をほぼ確実にしたので充分な結果なのだが、ちょっと気になることがある。

大黒柱の澤選手に精彩がないように見えた。試合開始直後から何となく苦しげな表情に見えた。
気のせいだといいのですが。
試合後、本人はもとより他の選手や監督も、澤選手について何のコメントもしてないのでわかりませんが少々気になります。


頑張った八幡浜高校

≪BY 浜っ子≫

甲子園まであと2つ勝てば、というところでしたが、残念無念八高は川之江高校に敗れました。
今日の試合は川之江のピッチャーが素晴らしいピッチング。低めにスライダーとフォークが面白いように決まる。
切れの良いフォークは見送れば殆どがワンバウンドのボールになるのだが、低めに落ちてストライクになるスライダーと組み合わされると手が出てしまう。
今日の川之江の大西投手のピッチングは、高校生では打ち崩せない。

八高が「決め球の変化球の来る前に」と積極的に早いカウントから打ちに行ったのも、ラクラク完投させる要因となったが、これは責められない。脱帽である。

八高生よくがんばりました、お疲れさまでした。 川之江高校、次戦も頑張れ!


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