友人が貸してくれた、ゲーリー・ズーカフ氏の「魂をめぐる物語(SOUL STORIES)」
アメリカでは有名なベストセラー作家だそうです。
≪あなたがあなたの魂と接触すると、あなたのハイアー・セルフ(高次の自己)があなたに声をかけてきます。 続きを読む
友人が貸してくれた、ゲーリー・ズーカフ氏の「魂をめぐる物語(SOUL STORIES)」
アメリカでは有名なベストセラー作家だそうです。
≪あなたがあなたの魂と接触すると、あなたのハイアー・セルフ(高次の自己)があなたに声をかけてきます。 続きを読む
「阿吽の呼吸」ではなく「阿・雲の呼吸」。 なに「雲」て?
11月3日松山で開かれたセミナーの名前が「阿・雲の呼吸」。
これ実は有名なスピリチュアルマスター阿部敏郎さんと雲黒斎さんのコラボトークショウ&セミナーで、「阿」は阿部敏郎の「阿」。「雲」は雲黒斎さんの「雲」。「ウンコクサイ」と読みます。
ホントふざけた名前ですよね。人前では呼べないよ! 続きを読む
≪BY カワサキ≫
「ニ人の世界」という石原裕次郎さんの歌はあったが、これは歌の、いや愛し合う者が何もかも忘れて2人だけの世界に浸るお話。
先日、「世界との一体感」を取り戻したくて「世界征服を夢見る子供」、のことを書いたが、この現実世界の中で「自意識」を持つ人間は、「自分と世 界」を明確に分離して考えている。「自分」とは、生命を持ち快・不快を感じるこの身体であり、そして思考しその反応としての感情を持ち、喜び・悲しみ・怒 り・愛し・希望に胸を膨らませ、そして絶望する自意識である。
それ以外の全てのものは「自分」と切り離された客観的「世界」である。客観的と言ったのは、恐らく自分が死んだあとにもこの世界は何事もなく存在す るのだろうと思っているからである。いいかえると我々は「我々と無縁の客観的世界」で、一人一人が自分だけの自意識の世界に住む「孤独な旅人」であると 思っているのだ。
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≪BY カワサキ≫
子供の頃、抑えようのない「征服欲」に 取りつかれた時期がある。 たかだか小学生高学年の子供が「世界征服」を真剣に夢想するのである。まるでマンガである。 続きを読む
≪BY ニドウ)
幸せってなんでしょうか?
昔、何かの本で、日本の巨大新興宗教の会長さんが「幸せとなにか。簡単にいえば”欲望の充足だ”」と言っているのを見た事があります。まあ「現世利益」を売り物にしている宗教だけあって「解りやすい!」
ここだけ切り取って言えば「共産主義者と何にも変わらないです。
お釈迦様は「幸せとは苦の消滅」だと言いました。
八つの苦が(四苦八苦)人生の根本原理である。「苦を知りその生じる原因を知り、苦を滅する方法を知り、苦を滅する方法を実践する」ことで幸せ(涅槃寂静)になる。
仏教以外の宗教の信者から見ると「仏教は宗教ではなくて哲学だろう」と感じる人が多いようです。
確かに理路整然、其々に必要な知識、考え方を具体的に書かれています。科学的といってよいくらいで「哲学」という評価は正しいと思います。
ここ最近(といっても結構前1980年頃からですが)ニューエイジ運動としてアメリカで生まれた思想があります。
それは現代の実証科学的手法を用いた、退行催眠による前生記憶や臨死体験の記録を既定事実としてとらえ、社会活動における成功法で用いられる思考法(ポジティブシンキング・願望達成法など)に、東洋の宗教的瞑想実践法から得た神秘体験をミックスした、新しい思想(宗教)活動です。
大変魅力的な思想で、数多くのスピリチュアルマスターが感動的な著書を数多く出版され世界的なベストセラーが生まれています。
しかしこれらの本を読むと、本当に驚くほど仏教に近いのです。
もっといえば、「仏教の解りやすい解説書」といってもよいくらいです。
なぜこんなことになったのかというと、これは本来世界の仏教界をリードしてしかるべき立場の「日本仏教界」が人材不足により、難解な(精緻すぎる)仏教を解りやすく解説する努力を怠った権威主義に陥っているからしょう。
おかげで仏教など「葬式仏教」と呼ばれるくらい日常と乖離してしまいました。
日本でもニューエイジ活動家でスピリチュアルマスターと呼ばれる人がここ最近多くあらわれていますので、仏教界からも是非新しい日本人の指導者が現れて欲しいものです。
長い歴史を持つ仏教は、ニューエイジ思想を凌駕する、素晴らしく具体的な修行メソッッドを有しています。
日本は近いうちに、仏教だけでなくニューエイジ運動の聖地にもなるに違いありません。
(でも日本人は輸入物が好きですからね(笑)。私もですけど)
≪BY ニドウ≫
様々な場面で不平・不満を持つ人たちがいる。
仕事がない。仕事がうまくいかない。人間関係がうまくいかない。恋人ができない。病気が治らない。人それぞれ千差万別の不満を身内に持つている。
その時、誰かの、人せいにしていないだろうか。
心の中で、「私に比べてあの人は恵まれている」「今の社会が悪いんだ」「あの人が私を理解してくれないから」「私は不運である」
「人のせい、社会のせい、運命のせい」にする。これが「自分を慰めるための思考」でありエゴと呼ばれるものです。
しかしエゴはそのように理由づけするけれど何も解決できない。エゴは「自分」を正当化することが役目だからです。注意しなければならないのはこの時の「自分」とはエゴ自身のことなのです。
そしてもっと大事なことは「現代人はこのエゴ(その思考)を自分であると勘違いしていることです」
もともとエゴは命・身体を守るための優秀な機能なのです。
様々な経験を通して「こうすればこの身体と心は安全で楽である」という無意識の知識を積み上げていく事ができるのです。
しかしその反面、生命・身体を守るということは危険を察知し回避することですから、基本的に「こうすれば危ない」という不安をベースにしたものになります。行き過ぎると常に不安を探しているということになります。エゴを自分と勘違いした現代人は、不安を抱えながら生きている状態なのです。
不安が解消されないエゴ(自己)を抱えている人は不満・苦悩・怒りを抱えつつ生きることになります。それに対し前向きに解決できる人はいいのですが、出来なかったり失敗を繰り返した人に、エゴは「君は悪くない〇〇が悪いんだよ」と慰めてくれるのです。が解決にはなりません。
こんな目にあうのは、「何か、あるいは誰かのせいだ」と考えている限りどうすることもできないのです。
「私の責任だ」と自覚した時はじめてそれを変えられるのです。つまり「エゴ」の考えから離れることができるのです。
エゴから離れると当たり前の解決方法が見えてきます。
「自分のしていることを変える方が、他者がしていることを変えるよりずっと簡単なのです。」
BY ニドウ
信仰とは何か?なぜ証明しようもない者を信じられるのか?それは、無知による非科学的な行為ではないのか?
かつて、そう考えていたのだが、では「科学的に生きようと試みて如何ほどの幸福を手にすることができたのか?」と問われれば何ほどのものも得てはないのだ。
いくら知識を漁り思考を積み重ね、世の蒙昧な説を論駁しようが、この身の内に確たる自信や信念はかけらもない。
ただ不安に怯え、苛立ちを隠し、真実を求めてさらに知識を得て思考にすがり、何時の日か安寧の日々が僥倖のように訪れるのをあてもなく待ち続け、気が付けばいつしか齢を重ね、朽ちてゆく身を諦念を持って眺めるのみ。
知識・思考に何ほどの力もないと知れば今、非科学的とされる「信」にこそ求め続けてきた安寧のとば口があることにたどり着く以外はあるまい。
真理、この世の全き理解、悟りの道は、信仰や信念の内にあることをついに理解するのである。
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