カテゴリ:つぶやき

悩ましき twitter

《BY 老師》

としがいもなく、判らないくせに性懲りもなく・・twitterやface-bookをカジッテ見るのだが、満足に使いこなせるはずもなく途方にくれることもしばしば。

特にtwitterは、見知らぬ相手をフォローしたが最後フォローした相手達から膨大な呟きが流れてくる。それだけならいいがそれらが瞬く間に流れ去ってゆく。なぜなら、後から後から押し寄せてくる新しいつぶやきに古いものは彼方へと押し流されてゆくのだ。つまり川の流れのようなもの、でいみじくもこれを「タイムライン」と呼ぶ。

流れてくる情報は種々雑多。意味不明の言葉も多い。
ふと「これはなにかに似ている」と言う思いが浮かんだ。

そうだ確かに「あれ」に似ている。

目の前を通り過ぎてゆく出来事に、一々ののしったり感嘆したり嘆いたりする。
つまらぬ事を考え、その考えがかぎとなって次の思いを引き起こし次々と連想や想像をたくましくし、あろうことかそれで腹を立てたり悲しんだりする。

懸命な諸兄にはもうお判りでしょう。
「あれ」とは人間の頭の中の「思考」です。

ご丁寧にtwitterにはフォローのほかに「お気に入り」や「リスト」といった、自分の興味のある相手を登録する事が出来る。つまりある物事に対する興味を強化し「偏執狂」への道筋まで用意している。

製作者が意図していたかどうかは判らない。
だが最近ますます強く思うのです。
twitter は「人間の煩悩」をかたどっている。いやtwitter は「煩悩」そのものだ!と



ネパール美人

《by kou》

東電女性社員殺害事件で有罪判決を受けてたネパール人ゴビンタ・プラサド・マイナリさんが新たな証拠が出てきて再審決定で釈放されネパールに帰国されました。
冤罪で異国に地で無期懲役判決は辛かっただろうと思います。良かったです。

しかし、ネパールからやってきた妻と二人の娘さんには目を惹かれましたね。美人でした。彫りが深くて目はパッチリ歯はあくまで白い。日本で芸能活動でも出来そうでした。
インド系なのかもしれないけどインド美人のような悪の強さがない。お国柄でしょうか。



おかしな話でしょ?って鳩山が言うな!

≪BY WEBラジオ≫

民主党内の反増税派小沢氏が鳩山元首相とタッグ。
鳩山氏「マニフェスト棚上げで増税、おかしな話でしょ」だって。
民主党のマニフェストがいかに出鱈目なものか国民の目の前にさらし謝罪したのはあなたです。
民主党内の反野田勢力は「マニフェストを実現するのが我々の務め、国民も民主党に期待している」といいますが、自分たちの都合で「守るマニフェスト」を主張してみっともないったらありゃしない。それに私も国民の一人ですが民主党には全く期待していません。
政権与党となってここまでに「マニフェスト総崩れ状態」で何を今さら「消費税を上げないのが民主党のマニフェスト」ですか。

本来なら民主党は「マニフェスト違反」でとっくの昔に解散総選挙で今一度国民に信を問うべきだったと思います。
「選んだ国民が悪い」かもしれないが「一度やらせてみれば」と民意をあおったマスコミはもっと悪い。

はやく解散して政界再編で総選挙、総選挙。
共産・社民・公明党を除いた政党の憂国の士で日本を守る安定政権を作ってください。総理は野田さんでいいと思いますよ。



雑感 ジュニア・ロンブー淳ついでにレバ刺し

BY WEBラジオ

人気お笑い芸人の若いころのビデオでお互いの恥をさらす番組。人の失敗は面白いもの。
だが、千原ジュニアとロンブーの淳のお二人の破天荒なほどの運動音痴ぶりには笑ってしまいました。あれ子供の頃なら相当コンプレックスになるはず。

今や超売れっ子のお二人、きっとそのコンプレックスをばねにして頑張ったんだろうなと思うとちょっと彼らを見る目が変わってきました。よく頑張ったね!

「レバ刺し禁止!」
レバ―内部に大腸菌の一種O157を持つ例が見つかったという事で厚生労働省が7月から業者に禁止令。
昨年のユッケによる食中毒がきっかけになったというが、ユッケはお咎めなし。レバーは除菌が困難というのが理由のようだが、平成23年に生レバーによる食中毒と考えられるのは食中毒「全体の1%」。その上死亡者はなし。

焼き肉屋でホルモンを生に近い状態で食ってる人も多いというのに、「なぜレバーだけ」というのが正直な気持ち。
「刺身はダメ、河豚もダメ、ユッケももちろん焼き肉は十分火を通してでなければ食べてはならぬ。その他国民の命を脅かす物はすべてダメ」というならそれはそれで筋がとっているけど後が大変ですよ。

温泉などの共同風呂も全面禁止。海では泳いではならぬ、泳げるのはプロだけ。血まみれになる可能性のあるボクシングや格闘技は禁止。包丁やチェーンソーも危ないから販売禁止。カナズチも危ない。山登りなんかあんな死亡率の高い趣味はご法度。違反すれば重罪。
極めつけは、生の〇〇Xはだめ、KISSもだめ、、事前に厚生労働省にとどけでて血液検査とDNA判定を受けパスした人だけお情けをもらえる。
世も末だねエー



伊方原発と「死」

BY 浜っ子

高知に住んでいる友人が「伊方原発の再稼働反対デモ」に参加するという。彼は共産党員である。どうやらバスを仕立ててあちこちから人をかき集めるらしい。

安全かどうか?この議論はいつも「絶対に安全か?」という問いかけになる。この問いかけに国も電力会社も「絶対に安全である」という回答で対応してきたがそれは間違い。実は誰もがこのような問題で「絶対はあり得ない」と知っている。

原発に、空から飛行機が落ちてきたらどうなる?テロリストが攻撃したらどうなる?いや隕石が落ちてくるかもしれない。可能性だけ数え上げれば切りはない。

答える方も間違っているが問いかける方も間違っている。「絶対安全」を要求する議論はそもそも不毛な議論だと思う。
反対派の人達も判っている。だから彼らの主張は「原発完全廃止」という主張にしか行きつくしかない。絶対を求めるからそうなる当然の帰結。
そしてそれが「絶対」に正しいと信じている。

しかしそうまでして求める「絶対の安全」は原発の問題は別にしても、要求することができるのでしょうか?

彼らの求める『安全』は、抗議者の言葉でよく使われる「命を守る」ということなのでしょう。
とすると「死なない」ことが彼らの要求ということになる。彼らにとって『死』は悪でしかないのでしょう?『死』は人間にとって大きな問題だろうけれど人は皆いずれ死ぬ。『死』が悪だとしたら死にゆく存在の人間は常に「敗北者」でしかなくなる。

原発即時廃止論者のような考えは、人間の尊厳を著しく損なう。
唯物論を背景とする共産主義はすでに破たんしているにもかかわらず、無意識に『人の命』を『人の尊厳』よりも優先する風潮が蔓延する世界に我々はいる。
『人の命』に最高の価値をみようとする共産主義(国家)が、それを絶対視するがゆえに大量虐殺を繰り返してきた事実をどう考えればいいのだろう。

今すぐ原発が廃止されれば原発事故の不安は無くなる。原発事故による『死』からは免れる。しかし電気料金の値上がり、地球温暖化、化石燃料採掘による環境破壊、企業破壊と雇用喪失、インフラの不安定化、財政の悪化と社会保障の削減、これらによって引き起こされる日本社会の不安定化。
彼らの求める安全は帰って安全を広範囲に脅かすことになるのではないでしょうか。
これらの問題に対処する時間的余裕が必要なのではないでしょうか?

一旦原発に事故が起これば大変なことになるのは昨年の福島原発事故でよく判りました。伊方町のように瀬戸内海という狭い海域に望む原発で事故が起これば、放射能汚染で壊滅的な打撃を受ける可能性もわかります。

絶対に事故は起こしてはならない。今回の災害を教訓に地震・津波に対し可能な限りの対策をする。
これが我々が今とるべき道だと思います。

余談ですが、福島の事故後、放射能汚染を調べるため全国の干しシイタケの汚染を調べたところ、北九州産が最も汚染がひどかったという調査結果があります。もし放射能汚染を危惧するなら日本国内の原発だけをなくしても解決する問題ではないようです。

 



なぜテレビはオウムばかり追いかける

BY 還暦爺

ここんとこ、テレビのニュース番組はオウム真理教の逃亡犯高橋克也のことばかり追いかけている。
長年逃亡していた菊地直子容疑者が捕まりその変貌ぶりが話題になっていたが、その菊池容疑者と5年ほど前まで一緒に逃亡していた高橋容疑者。
しかし、不思議なのは菊池容疑者が逮捕されるや否やあっという間に勤め先や潜伏先が判明し、防犯カメラに映った高橋容疑者の姿が繰り返しテレビで流されている。まるで菊池容疑者の逮捕前から居場所を掴んでいたかのようなスピーディーさ。

本当にこれほどまでにテレビで取り上げ続ける必要がある事件なのか?
こんな事件よりもっと取り上げるべき話題はいくらでもあるだろうに。

しかし手配写真と全く別人のような犯人を見ると、あの手配写真はきっと犯人にとっては格好のヵくれみのなんだろうね。わたしなら絶対に逃亡犯とは判別できない。見つけた人は偉いが、どうして判ったのかそっちの方が興味があるよ。



BY ニドウ

信仰とは何か?なぜ証明しようもない者を信じられるのか?それは、無知による非科学的な行為ではないのか?

かつて、そう考えていたのだが、では「科学的に生きようと試みて如何ほどの幸福を手にすることができたのか?」と問われれば何ほどのものも得てはないのだ。

いくら知識を漁り思考を積み重ね、世の蒙昧な説を論駁しようが、この身の内に確たる自信や信念はかけらもない。
ただ不安に怯え、苛立ちを隠し、真実を求めてさらに知識を得て思考にすがり、何時の日か安寧の日々が僥倖のように訪れるのをあてもなく待ち続け、気が付けばいつしか齢を重ね、朽ちてゆく身を諦念を持って眺めるのみ。

知識・思考に何ほどの力もないと知れば今、非科学的とされる「信」にこそ求め続けてきた安寧のとば口があることにたどり着く以外はあるまい。

真理、この世の全き理解、悟りの道は、信仰や信念の内にあることをついに理解するのである。



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