100年前に誰が今の世界を予測し得ただろうか?
SF小説家あたりなら、自然科学の発達による便利な機器の発明の一部くらいは予測したかもしれない。
人類は、空を飛び、海に潜り、宇宙空間にまで足跡を記した。
あらゆる出来事を映像としてを記録し、遠くにいる人といながらにして会話することができる。
ひょっとすれば自分の細胞から新たな自分(クローン)を作るという『神業』さえも可能になるかもしれない。
だが人類はそれで『幸福』を手にしたのか?
せめて、『山のあなたの 空遠く』 少年の日に思い描いた見果てぬ空の下、
『幸い住むと人のいう』、うつつ夢見るユートピアの、その影なと垣間見ることはできたのだろうか?
全く冗談ではない。
文明が発達しようが求める『ユートピア』のその影さえ見えぬ。
若者たちは「そんなものはありはしない」と享楽にふける。
今日も今日とて、アフリカの地で女生徒200以上を拉致した『イスラム過激派』のリーダーが、「西洋風教育をやめなければ女生徒を人身売買で売り飛ばす」と画面の中で笑顔でうそぶいている。
イスラム聖職者はこの映像をどういう気持ちで見ているのだろう?
なぜ聖職者達はテロリストに「あなたは間違っている」と指弾しないのだろう?
混迷を深める地上世界は神の不在の証明なのか?
神は「思召し」とうそぶくテロリストの味方なのか?
まったく冗談ではない。
賢明な人なら既に気がついているはずだ!
この混乱の源は、
人間の命を大事にしろ、国民の生活を守れという人たちだ。
人間の命を不可侵の価値とあがめ全ての上位においた人たちだ。
言いかえれば「神を殺し、人間、いや自分を神に仕立てあげた」人たちだ。
彼らの主張の行き着くところは悲しいかな必然的に決まっている。
彼らの言う命は「自分の命」であり、生活とは「自分の生活」でしかない。
自ら意識せず、他の人達の不幸に「自分でなくてよかった」と胸をなでおろす。
彼らの崇める命は『エゴ』の生み出す『自我』である。
価値も目的もない、生きんが為のただのシステムである。
かつての日本人はその『エゴ』を抑えることを人生の修養としていた。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」という『葉隠れ』の一節は、決して命を軽んじるものではない。
エゴに振り回され「命を後生大事」にすることで結果『恥知らず』な行為をとることをおそれ、「道に迷わばいち早く死ぬ道を選択せよ」と教えた言葉である。
【乗客を見捨て、いの一番に逃げ出したどこかの国の船長は、いまほっと胸をなでおろしていることだろうが、その生きながらえた人生が生き地獄だと気がつく日が来なければ無間地獄に落ちるしかないだろう。】
日本の武士道の真髄はここにある。
日本刀の如く鍛え上げたこの価値観は、日本文化独特の凄さであり、
この精神文化こそが、世界を救う唯一の手立てではないかと思う。
【どうせ批判する人は多いだろう。好きにすればいい。だが頭ごなしに否定せずせめて自分の頭で一度考えてみて欲しいと思います。)